ブ・ロ・グ
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彗星のごとく
思えば長い時間が経った。

正直なところ、昔に戻りたいとふと思う時がある。
何の憂いも抱かず、あるいは不安を感じながらもどこか余裕のある状況でネトゲに没頭していた日々。
若干22年の人生でそれは3度訪れた。

1度目は中学のときだ。
パソコンにはじめて触れることができた。
触れるものすべてが新鮮で、楽しかった。機械は好きだった。様々なものに手を出した。
その1つとしてtwをはじめたが、随分とエネルギーを割いた。
一緒にプレイしていた友達が辞めたのと、高校受験をきっかけに自分も辞めた。

2度目は大学1年のときだ。
大学に入学し、予想以上の暇さに時間を持て余した。
ニコニコ動画で見かけた広告でふとtwのことを思い出した。いまどんなゲームになっているだろうか。軽い気持ちで始めたものの、昔と変わらない世界がそこにあった。
昔と違ったのは、自由を得ていたことだ。インターネットのみに留まらない自由。
人生を大きく変えた出会いがあった。
このことは生涯、限られた人にしか話さないだろう。共感を得られるとも思わないから、話す必要もないだろう。
出会いを機に、辞めた。

3度目は大学4年のときだ。
就職先が決まり、再び時間を大きく持て余した。余談ではあるが、人生で最も楽しかった1年間であろう。
一緒に遊べるツールを探している中で、再びtwと出会った。もう1年も前になるのだろうか。カフェで話題にあげたのを鮮明に記憶している。
コミュニティに属する気はなかった。
何の因果だったのだろう。
あんなに楽しかったコミュニティは、最初で最後だ。
就職を機に、3度、twも辞めることになった。




恐らくもうtwをプレイすることはないだろう。
あるいはネトゲそのものをプレイすることはない。
そのことを考えると、寂寞の念に苛まれる。

都度都度でそれは僕の人生の隙間を埋めた。
ともすれば、生き方まで規定した。
結果的には、青春の一部であったといっても過言ではない。


これから何をし、何を見、何を感じるのか。
一度人生が交差した人々は何をして生きていくのか。
どうにも、生きづらい。
僕は過去とは決別できない。
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代替不可能性
自分の価値とは何なのかを問う日が続く。
そもそも価値という言葉1つで括るには価値という概念は広すぎる。
概念を細分化し、それぞれが何に対し発揮される価値なのかを明らかにしなければならない。



社会において、社会に積極的に参加しようとしない者に価値は認められない。
しかし、社会の構成員それぞれがそのような暗黙知に基いて行動するならば、一体社会とは何者なのだろう。価値を認めることのできる主体とは何者なのだろう。
ひょっとしたら、社会の構成員全てが価値を認められようとしているという僕の規範が誤っているのかもしれない。単独では無価値であるが、価値のある者の価値を認めるという価値を持つ構成員がいるのかもしれない。


価値のある者は極めて少数だ。
社会のほとんどの人間が価値を認めるための価値しか持っていない。今の僕もその1人だ。


代替不可能性を持つ人間はそうそう存在しない。
フルコンプ
いづくんぞ生きるを知らん
いままで人生死ぬまでの暇つぶしと思って生きていたが、それは誤りではないかと最近思い直す。
恵まれた環境に生まれ育ち、幾重にもはられたセーフティネットが人生を暇つぶしと錯覚させている。世界の多くの人にとって、生きることは暇つぶしと軽々に呼んでいいものではない。
一方で、そのような人たちと僕の価値観を同一のレベルで議論してよいものかという疑問も解消されない。道徳的には同一のものであるし、僕の心もそうあることを欲している。しかし現実は違う。生きる道が決して交わらないからだ。たとえば彼らは明日僕が食べるバナナを栽培しているかもしれない。彼らが栽培したバナナを食べることは彼らの存在を僕の世界に認めることだ。しかしともにバナナを食べ言葉を交わし、価値観を共有しうるような、人生と人生との交差点はそこに存在しない。彼らは僕の意識にその痕跡すら見せない。
そうであれば、人生が暇つぶしであることに疑いはない。暇つぶし然として生きればよい。
結論が定まらないまま、漂うように生きていくのは望まない。かといって結論に達しうる根拠をどこで得ればよいのかもわからない。難しい問題だ。


よりひろく見れば、生きる目的は人間という種の発展であろう。
発展とは2つの方向で規定される。規模の拡大による水平的発展と、質の向上による垂直的発展である。
わかりやすく言えば、種の物理的存続のために子を生むか、種の進化のために知を蓄積するかの2つだ。
したがって、子を生んだ女性(ないし生みうるという意味ですべての女性)や、知の代名詞である学者はそれだけで個としての価値が高いと考えている。

では、そのいずれの存在にもなりえない、個としての価値が低い僕はどう生きればよいのか。
個としての価値が低いことは裏を返せば、自由の象徴でもある。種の使命を背負っていないとも考えられるからだ。
ゆえに、自ら生きる意味を見出さなければならない。



生きることが死ぬまでの暇つぶしでないのなら、一体なんなのだろうか。
新陳代謝
クラブを作る。新しい環境と、クラブを大きくするという目標がやる気を刺激する。


クラブメンバーを募集する。人類最良の娯楽であるコミュニケーションは、やる気を刺激する。
ここで、クラブの成長速度に対するクラブメンバーの増加数は一定であると考えられる。小さな規模のクラブを目指すクラブマスターは小さな規模の募集を行い、大きな規模のクラブを目指すクラブマスターは大きな規模の募集を行うからである。クラブはクラブマスターの掲げる目標の大きさに対応して大きくなっていく。


クラブメンバーが増えてくる。自らが、ないし自らとクラブメンバーが作り上げた規模の大きさ、それに伴う達成感、高揚感、コミュニケーションの楽しさ、あらゆる要素がやる気を刺激する。
作り上げたクラブに関して、クラブマスターとしてのピークを迎える。同時に、この地点はクラブのピークでもある。クラブマスターの目標の大きさを可視化したものがクラブの規模であり、目標の達成はクラブの規模の拡大上限を意味するからである。クラブメンバーの募集は、この次期を境に極端に減る。


クラブメンバーが減ってくる。脱退による減少速度が募集による増加速度を上回る。
しかし、クラブの楽しさは減衰しない。ピークにおける時点でできたクラブ内部のコミュニティが維持されている可能性が高いからである。コミュニティの輪に入れなかった者から、1人1人と消えていく。


クラブメンバーが更に減っていく。コミュニティの輪の外殻をなすメンバーが脱退していく。コミュニティの輪に入れなかった者がいなくなってしまったことに気付くのである。
コミュニティの核をなすメンバーも、いくばくかの違和感を覚える。違和感の正体がメンバーの減少に由来することを無意識下で認識するものの、目をそらす。


クラブメンバーの減少が止まる。コミュニティから外れた者、外殻をなす者が全て脱退し、脱退を考えうる者がクラブに存在しなくなる。
残ったのはピークにおいて核をなしたクラブメンバーだけである。目標を達成し減衰していたクラブマスターのやる気に追い打ちがかかる。かつて掲げていた目標の大きさと、現在のクラブの規模が一致しないからである。目標と現実のずれがやる気を削ぐ。


クラブが解散する。



クラブができてから、解散するまでのサイクルである。
経験上、クラブの解散のサイクルは3ヶ月から半年だ。
サイクルの長さはクラブマスターが当初持っていた目標に比例する。規模の増加に対するメンバー増加の割合は一定だが、メンバーの減少速度はピークに達した地点から規模に関係なく一定だからである。

実際にはゲームそのものへのやる気(クラブマスターたるキャラへのやる気)の減衰もクラブの解散に影響してくるから、この寿命が短くなることはあっても長くなることは稀である。
半年を超えて存続するクラブは優良だ。
クラブマスターが優秀か、クラブに生まれた秩序の質が高いか、内部に生まれるコミュニティが大きいか、いずれにせよポジティブな要因が存在することは間違いない。


今回僕が入ったクラブは優良だった。いままでにないほど優良だったと思う。巡りあわせに感謝したい。
僕のサイクルは閉じてしまったが、クラブのサイクルはまだまだ閉じそうにない。
可能な限り長く存続せんことを願います。
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