ブ・ロ・グ
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いづくんぞ生きるを知らん
いままで人生死ぬまでの暇つぶしと思って生きていたが、それは誤りではないかと最近思い直す。
恵まれた環境に生まれ育ち、幾重にもはられたセーフティネットが人生を暇つぶしと錯覚させている。世界の多くの人にとって、生きることは暇つぶしと軽々に呼んでいいものではない。
一方で、そのような人たちと僕の価値観を同一のレベルで議論してよいものかという疑問も解消されない。道徳的には同一のものであるし、僕の心もそうあることを欲している。しかし現実は違う。生きる道が決して交わらないからだ。たとえば彼らは明日僕が食べるバナナを栽培しているかもしれない。彼らが栽培したバナナを食べることは彼らの存在を僕の世界に認めることだ。しかしともにバナナを食べ言葉を交わし、価値観を共有しうるような、人生と人生との交差点はそこに存在しない。彼らは僕の意識にその痕跡すら見せない。
そうであれば、人生が暇つぶしであることに疑いはない。暇つぶし然として生きればよい。
結論が定まらないまま、漂うように生きていくのは望まない。かといって結論に達しうる根拠をどこで得ればよいのかもわからない。難しい問題だ。


よりひろく見れば、生きる目的は人間という種の発展であろう。
発展とは2つの方向で規定される。規模の拡大による水平的発展と、質の向上による垂直的発展である。
わかりやすく言えば、種の物理的存続のために子を生むか、種の進化のために知を蓄積するかの2つだ。
したがって、子を生んだ女性(ないし生みうるという意味ですべての女性)や、知の代名詞である学者はそれだけで個としての価値が高いと考えている。

では、そのいずれの存在にもなりえない、個としての価値が低い僕はどう生きればよいのか。
個としての価値が低いことは裏を返せば、自由の象徴でもある。種の使命を背負っていないとも考えられるからだ。
ゆえに、自ら生きる意味を見出さなければならない。



生きることが死ぬまでの暇つぶしでないのなら、一体なんなのだろうか。
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